4/02/2025

お大師さまとお接待 その4

寺社巡りを楽しんだ庶民

江戸時代の仏教と旅事情





西國三拾三所當来救世観世音菩薩」(寛保三年・西暦1743年
➁「光明真言塔」(宝暦九年・西暦1759年)
③「奉順禮西國三十三所供養塔」(安永四年・西暦1775年)

 右の写真は志手の毘沙門堂です。左の写真の石造物は志手に昔から住む「園田」※さんたちの墓地にあります。

  ※志手の園田さんについてはこのブログ「大分『志手』散歩」の「ふるさとだよりで知る志手のトリビア➁志手と言えば園田さん―そのルーツは?」(2023年1月3日公開)で紹介しています。

 ①から③の番号は年代の古い順です。偶然でしょうか、三つの石造物は16年間隔でつくられています。

 毘沙門堂の①と③は、このブログ「大分『志手』散歩」の「お大師さまとお接待 その2」(2025年3月11日公開)で紹介しました。

 左の写真の「光明真言塔」については「大分『志手』散歩」の「お大師さまとお接待 その3」(2025年3月25日公開)で紹介しています。

 この3基の石造物に関連はあるのか。「点」と「点」を結ぶ「線」が見えてくるか。あまり期待はできませんが、確認してみたいと思います。

 関連を調べるただ一つの手がかりは名前です。①に刻まれた名前と➁にある名前に「同名」があれば関連性が考えられます。

 毘沙門堂の①の「西國三十三所當来救世観世音菩薩」の台座(左の写真)には18人の名前が彫ってあります。

 この中に➁の「光明真言塔」の施主として刻まれた「次右衛門」と「十右衛門」の名前があるでしょうか。

 ざっと見たところ、「次右衛門」と「十右衛門」の2人の名前はありませんでした。

 西暦1743年と1759年で16年の隔たりがあります。その間に志手村の有力者が入れ替わった、世代交代したということもあるかもしれません。

 あるいは次右衛門と十右衛門は志手村の住人ではなく、近隣の村の人間で、その人たちがつくったものが、何かの偶然で志手の園田さんたちの墓地に持ってこられた。そうも考えられるかもしれません。

 手持ちの材料ではこれ以上のことは推測できません。
 

寺社巡りを楽しんだ江戸の庶民


 このブログ「大分『志手』散歩」の筆者は考えました。「江戸時代の仏教事情について何も知らないでは話にならない」「とりあえず基礎知識を学べる本でもないか」。そう思って大分県立図書館に行ってみました。

この先は下の「続きを読む」をクリックして下さい


 図書館には行ったもののどの本を選んでいいか分かりません。「仏教史入門」といった本もありましたが、入門編でも難しく感じます。

 探していると「図説」の文字が目に入りました。表紙に「図説 日本仏教の歴史 江戸時代」「圭室文雄編」とあります。

 図や写真が入って読みやすいのかもしれない。そう思って手に取りました。

 目次を見ると「江戸幕府と仏教」「伊勢参宮と高野山参詣」「浅草観音と江戸の民衆」「増上寺と関東十八檀林」「近世の寺院建築」「近世の修験道」「人物展望」「江戸時代 仏教史年表」とありました。

 参考になりそうなのは「伊勢参宮と高野山参詣」あたりでしょうか。

 ページをめくると「はじめに」とあり、以下の文章がありました。

 「江戸時代には伊勢参宮と高野山参詣はセット旅行で、民衆の多くはこのような旅行を、すくなくとも一生に何回か行っている

 「そのために町や村では講を組み、共同体の成員がすべてこの講に入り、費用を負担し、若い者を代表者として派遣するのが一般的だった」

 「代表者になったメンバーは長期間の旅行を通じて連帯感を持ち、一生つき合いを続け村落共同体の紐帯ともなる役割を参詣の旅は持っていたのである」
 
 とすると、毘沙門堂の石仏の台座に刻まれた18人はどうなのでしょう。石仏は「
西國三拾三所當来救世観世音菩薩」と彫ってありました。

 この18人は志手村を代表して西国三十三所の寺院を巡ったメンバーということになるのでしょうか。

 志手村からも毎年、伊勢神宮や高野山などに参る人々を送り出していたのでしょうか。とすれば、なぜこの時だけ記念碑的なものを建てたのでしょうか。

 にわか知識を少し仕込んだだけでは疑問は増すばかりです。
 

旅を日常にした寺社の仕掛け


  そもそも江戸時代の人々はそんなに簡単に旅ができたのでしょうか。

 「図説 日本仏教の歴史 江戸時代」の「伊勢参宮と高野山参詣」の章に解説がありました。

 伊勢参りのポイントは「伊勢講」と「御師」のようです。

 「御師」についてはウィキペディアに以下の説明がありました。

 「例えば、伊勢御師は全国各地に派遣され、現地の講(伊勢講)の世話を行い、彼らが伊勢参りに訪れた際には自己の宿坊で迎え入れて便宜を図った」

 御師(おし)の檀家数、つまりお客さん、得意先はどれくらいあったのか。「日本仏教の歴史 江戸時代」では、1774年(安永3年)時点の神宮外宮の御師数と檀家数を表にしています。

 それによると、外宮御師は計431軒で総檀家数は496万6370。檀家数が10万を超えていた外宮御師は6軒あったということです。内宮の御師も外宮と同数の檀家数を持っていたとすれば合計でおよそ1000万にもなります。

 「日本仏教の歴史」によると「(伊勢講のほかに)こうした全国的な組織の宗教的講を持っていたのは、高野山講と金毘羅講であった」

 高野山では「高室院(たかむろいん)」が参詣の仕組みづくりに大きな役割を果たしたようです。

  いずれにしろ「中世末に始まった伊勢参宮・高野山参詣の講組織は1700年前後には強固なものになった」

強い統制 幕府→本山→末寺に

 

 「民衆はすべての講に組み込まれ、村落共同体の戸数の約1割程度の人数が多い所では毎年、そうでないところでも2、3年に1度は必ず村から代表者として送りだされることになった」と「日本仏教の歴史 江戸時代」は結論づけています。

 参宮・参詣の旅が全国津々浦々に浸透していった背景には江戸幕府の強い統制がありました。

 「図説 日本仏教の歴史 江戸時代」は最初に「江戸幕府と仏教」について解説しています。

 その「はじめに」の冒頭を引用してみます。

 「江戸時代ほど仏教が民衆の信仰として定着した時代はないといっても過言ではない」

「なぜならば江戸幕府は、中世以来仏教がもっていた様々な特権をはく奪し、寺院法度を制定して、完全に権力の下に支配した」

「また一方では各宗派の本山を確定し、末寺を支配する権限を与えた」

 「図説 日本仏教の歴史 江戸時代」は高野山と講の関係について次のように説明しています。

 「第一段階は真言宗寺院の檀家が結成した講を足掛かりに伸びた時期」。まず幕府-本山-末寺の縦組織が人々の旅の土台になりました。

 そして「第二段階は行政村落を単位として高室院みずからがつくった講である」。高室院、つまり高野山側が宗派を超えてより多くの人々を参詣へと誘ったというわけです。

 そのための工夫もあったようです。各地の村落を訪れる使僧(高野聖)は御札や御影などを携えていたそうです。

 真言宗であれば「南無遍照金剛」の御札ですが、訪問先が日蓮宗なら「大黒天札」、浄土真宗には「南無阿弥陀仏」の札を配ったそうです。

 融通無碍で、こうして宗教色が薄れていき、庶民の寺社巡りは観光の旅へと変わっていったということでしょうか。


◆     ◆     ◆     ◆

 弘法大師の命日に志手の毘沙門堂を参った人々に食べ物をふるまう「お接待」の経緯を調べていたら、話がどんどん脱線してしまいました。

 横道に逸れたついでですから、もう一つ調べてみようと思います。

 志手でもお伊勢参りが出ていたのか、その証拠となるものが何か残っているのか。念のために確認してみようと思います。

 ということで次は志手天神社に行ってみましょう。

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